はじめて考えるときのように/野矢茂樹

哲学、論理学の入門に近い位置付けとして、「考える」ということは何なのか、について書かれた本。
「ことば」や「論理」が「考える」ということとどのように関連するか、簡潔に語られている。

考えるということは、問いが頭にあり、何かのきっかけでその問いに関連する出来事を捉えることであり、「考える」という行動があるわけではない。
考えるためには、紙に書き出し、人に話し、自分の頭の中から外に出すことが必要という話が出てくるが、これは自分を振り返っても納得のできるものだ。


【目次】

  1. 「考える」って何をすることだろう
  2. 問いのかたち
  3. 論理的に考えるだって?
  4. ことばがなければ考えられない
  5. 見えない枠
  6. 自分の頭で考える?

【抜粋】
1

  • 「考える」っていうのは、耳を澄ますこと、研ぎ澄ますこと。だから、考えている間中、その人は考えていない人と同じように行動してていい。ただ違うのは一点、「あ、これだ!」という声にその人は耳を澄ましている。その一点だけ。
  • 問題をかかえこんでいる人にとっては、なんでもかんでもその問題に結びついてくる。見るもの触れるものが、その問題に関係した顔つきになってくる。自分のまわりのものごとが問題に彩られてしまう。

2

  • 答えを知らず、答えの方向もわからない人には、うまく問題がたてられない。だけど問題がうまくたられていないと、うまく答えることもできない。
  • 何の背景もなしに、ただ疑問文を作ってみても、それはぜんぜん問題にはなっていないということだ。ぼんやりと「何故空は青いんだろう」とつぶやいても、それが実は興味深い本物の問題だということを知るには、その人は多くのことをその背景に持っていなければならない。
  • これまで人が見出してきたさまざまな秩序、筋道を学ぶ。そうやって「型」を学ぶことによって、いままで見えていなかった、あるいはぼんやりとしか見えていなかった「型破り」なものが見えてくるようになる。つまり、学べば学ぶほど、見えてくる問題は増えるというわけだ。

3

  • 論理的な推論や計算は、それ自体は考えることじゃない。考えるというのは、そうした推論や計算、あるいはさまざまな観察を、問題解決のもとに取捨選択してうまくつなげることだ。

4

  • ことばがなければ可能性はない。この状況が全体丸ごと、ドカンと、なんの構造も持たずにあって、それに突き動かされているのだったら、ただ現実べったりに反応しているだけだ。
  • 「この部屋にはパンダがいない」と言える者は、ただ、この部屋にパンダがいる可能性をつかんでいる者だけだ。パンダがいたっていいと思ってる人だけが、「パンダがいない」って言える。
  • 否定というのは、可能性と現実のギャップに生じる。だから、現実べったりで可能性の世界をもたないものには否定ということもない。

5

  • 疑いは局地的なものでしかありえない。偽札かもしれないって疑うためには本物のお札がなくちゃだめだし、夢かもしれないって疑うには目覚めているときがなければいけない。疑うためには、疑いの足場が必要になる。何かを疑うためには、疑いをまぬがれているところがなくちゃだめなんだ。
  • ひとつの足場から眺め渡したら、今度は別の足場を見つけて、そこからさっき自分が立っていたところを問題にする。

6

  • ことばがなければ考えられない。そして、ことばというのは、自分一人で生み出せるものではなく、コミュニケーションを必要とする集団が、その歴史の中で作り上げ、作りつつあるものだ。
  • 考えるためのヒント
    1. 問題そのものを問う:何が問われているのか、なぜそれが問題になるのか。
    2. 論理を有効に使う:手持ちの情報の意味を引き出す。
    3. ことばを鍛える:考えるために僕らが唯一の翼がことばだ。
    4. 頭の外へ:手を使いながら、目を使いながら、自分の周囲のものたちを活性化していく。
    5. 話し合う:人に伝える、様々な意見に出会う。