ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・脅威の速読術/立花隆


立花隆が連載していた「私の読書日記」を集めたもの。
ジャンルを問わず様々な本の書評が並べられている。
また冒頭では大量の本を読むための読書術にも触れられている。
ぱっと全体像をつかむ「絵画読み」、時系列に逐次的に読み進めていく「音楽読み」の2つの分類を示し、
まずは絵画読みで全体をつかみ、その後に重要な部分について音楽読みで意味をつめていくという読み方がそれだ。

流し読みをするだけでも全体の流れは頭に入る、それを信用して全体像をつかむことが重要だ。
何も完璧主義的に読み進めて、挫折することはないのだと思った。


【抜粋】

  • 絵画的読みの本質は、全体像を常に見据えながら、読みの深さ、読みの店舗を自在に変えていくことにある。
  • 速読には電子媒体よりも紙のほうが優れている。必要な時間と頭に残る情報の質と量が違う。
  • ニュートンは近代科学の祖であると同時に、古代科学の最後の人。「死んだ金」である水銀から真正の金を作り出せると考え、研究していた。万有引力もオカルト的世界観から生まれてきた。
  • 一角獣は早くからイエスキリストを表す記号であったが、同時に死と悪魔を表すものでもあった。元々聖書に出てくる動物なのだが、実はヘブライ語の聖書をギリシア語に訳すときに牛のことを間違えて一角獣と訳した物とわかったので現代語訳の聖書には出てこない。
  • 濃い茶を同じ茶碗で飲みまわすという儀式と、同じ聖杯から葡萄酒を飲みまわす聖餐式との類似性。まわし飲みを終えた後、抹茶碗は茶巾で拭い、それを作法に則って折り畳まねばならないが、その様式が生産のあと聖杯を聖布で拭いて折り畳む様式と似ている。
  • 日本の歴史は海の時代と陸の時代を交互に繰り返してきた。奈良・平安、鎌倉、江戸時代が内陸思考の時代、それ以外の時代が海洋志向の時代である。海の時代は開国の時代であり、周辺世界との関係性の中で生きてきた。
  • 1989年にソニーコロンビア映画社の買収を行い、5年後に第二四半期だけで3200億円もの赤字を出し、映画市場最大の詐欺に遭ったと言われた。ソニーが二人のプロデューサーを雇ったが、その二人は多額の赤字、トラブルを抱えており、ソニーの買収提案を受けて大バカだとののしった。
  • 信長の妹、お市は秀吉にとって憧れの人であったが、浅井長政の妻となった。秀吉は浅井攻めにあって、長政とお市の子供を磔に残酷な処刑をした。これを恨み、お市柴田勝家と再婚してしまい、これに怒った秀吉は柴田勝家を滅ぼした。この後、秀吉がめとったのがお市の娘、淀君である。
  • 非差別カースト民に生まれた女盗賊プーランは、警察官を含む20数人の権力者を射殺し、司法取引に応じて投獄された。その後、貧民層の圧倒的な支持を受けて国会議員になる。
  • 発展途上国では、従来、技術書が現地語で出版されることがなく、英語の読める一部の技術者が扱えば十分と考えられていた。日本の援助協力でタイにおいて、写植技術を伝え、現地語で技術書を出版することで技術水準の工場に寄与した。開発援助の成功例。
  • シュリーマンは、トロイアの発掘にあたって、考古学的発掘というよりは、七層に積層された古代遺跡を、自分が目的とするトロイ戦争時代の粗ウゾのぞいては、ただただ破壊してしまい計測や記録すらちゃんと行わなかったというむちゃくちゃな発掘であった。
  • ケネディ政権、ジョンソン政権の国防長官であったマクナマラベトナム戦争に関する自身の決定について、重大な過ちを認め、マクナマラ回顧録を出版した。そこで地域に住む人たちの歴史、文化、政治、さらには指導者たちの人柄や習慣についての深刻な無知によるものと記した。
  • 失敗には協議の設計段階の技術的失敗もあるが、もっと多いのは、企画不良、価値観不良、制約条件の変化、組織運営不良、不注意、手順の不順守、調査・検討の不足と行った、より広義の設計段階で生まれる失敗である。
  • 日本陸軍の戦闘機は、出力を上げるのにスロットルレバーを押す機種と引く機種が混在しており、パイロットは混乱した。
  • 日本の主な航空機製造工場は、開戦時いずれも隣接する飛行場を持っていなかった。飛ばすためには、数時間十数時間かけて運送が必要になった。運用には牛が使われ、三菱が運送のために牛を買いあさったところ、物資等制令違反に問われ起訴されるまでに至った。
  • 英語の用語を漢字ですべて書けるまで実地訓練をさせなかったため、運転技術保有者を大量養成できず、十数台のトラックが用意されたにも関わらず、100人の部隊に誰一人として運転できるものがおらず、移動できないといった自体も生じた。
  • 黄河文明だけでなく、長江文明は発見されることで、中国史の見直しが行われている。現代の中国文化にも長江文明の刻印が残されており、川のことを北方では「河」、南方では「江」という。否定詞に北方では「否」、「非」が使われ、南方では「没」、「莫」が使われる。
  • 手足を失った人が、まだ手足が本当に存在するかのごとく感じる「幻肢症」は、脳の中の体性感覚野で失われた手足とつながっていた部分が、連結する先を失ってしまったために、他の部分とつながってしまうことによって起こる。そこでは二重結合が行われ、ある人は顔面に手の指の感覚がつながれ、顔面を触られることで、手の指が触られているのと同様の感覚を感じる。