戦後日本経済史/野口悠紀雄

戦後日本で「日本型」とされた経済体制は戦時に構築されたものであり、日本の伝統でもなんでもない。
こうした事実を戦時から戦後の経済史を通じて明快にした本。

終戦は経済体制の分岐点にはなっておらず、戦時体制が残された。
そしてそれには当時の官僚が一役買っており、占領軍の目をかいくぐり、体制を温存した。
こうした歴史を知るにつけ、官僚の強さを思い知る。

終身雇用、間接金融中心、労使協調といった日本型と言われたものが、日本人の性格ではなく、
必要に迫られて生まれた制度であるという点は、日本人として理解しておきたいところ。
それは逆に欧米ではこうだから、という理由で制度設計をしてもうまくいかないことも示している。

こうして歴史を学んでみても、日本は同じ轍を踏み続けているのではないだろうかという気持ちになる。
歴史を学び、未来に活かすことが必要だ。


【目次】
はじめに
第1章 焦土からの復興
第2章 高度成長の基盤を作る
第3章 高度成長
第4章 国際的地位の向上
第5章 石油ショック
第6章 バブル
第7章 バブル崩壊
第8章 金融危機
第9章 未来に向けて

【抜粋】
第1章 焦土からの復興

  • 戦時中の「軍需省」は、占領下で生き延びるために、敗戦後10日で商工省に看板の付け替えを終えた。
  • 吉田内閣によってなされた傾斜生産方式において、輸入重油を鉄鋼生産に集中投入し、増産された鋼材を炭坑に集中投入することが政府の補助金によって行われた。

    これは、通貨を増発してインフレーションを引き起こし、家計の消費を抑圧し、その文を重点産業に投入するといった仕組みであった。
  • 占領下における第1次農地改革により、地主の土地をインフレでタダ同然となった名目買収価格で買い上げ、売却を行った。これにより、太宰治の「斜陽」に描かれるような資産階級の没落が生じた。
  • 戦後改革(財閥解体借地借家法、農地解放 等)は、財閥家族、都市地主、農村地主といった資産階級にとってはマイナス、零細農家、都市住民によってはプラスの効果をもたらした。
  • 占領軍の公務員制度改革について、日本の官僚制に関する知識をアメリカが持っていなかったため、問題の本質を把握できなかったと述懐している。日本の公務員は、占領軍から自分の組織を守りきったといえる。

第2章 高度成長の基盤を作る

  • 需給の調整を図る方法は、2つある。1つは、「価格による調整」、もう1つは「統制的割当方式」である。終戦直後は、金・モノの双方について「資金割当方式」がとられてきたが、特に「資金」についてはそれが残った。銀行が資金の割当を決定し、銀行に対する融資を日銀が行い、日銀が融資を統制した。(窓口規制)
  • 大蔵大臣となった池田勇人の周りには、側近政治家(宮澤喜一大平正芳、黒金泰美)と宏池会という2つのブレーン集団が形成された。池田勇人は、「自分は頭が悪いから頼むよ」というのが口癖で、人材を周囲に築き上げていった。
  • 所得倍増計画を進める池田首相と一萬田日銀総裁の対立は、「重工業化vs軽工業維持」、「長期発展vs現状前提」という路線対立であった。

第3章 高度成長

  • 日本の高度成長は国内市場の拡大によるものであり、「規模の利益」が実現され、輸出競争力が高まった。90年代中国のように、外資企業が輸出中心で生産を拡大させた成長パターンとは異なる。
  • 戦後労働争議が激化する中で、日本企業は労使協調路線を取っていった。これを可能にした要因は、以下の2点。
    1. 戦時期の企業改革で大株主の影響が排除され、大企業経営者のほとんどが内部昇進者となったこと。経営者と労働者の未分離。
    2. 労働組合が産業別ではなく、企業別に組織されており、企業と運命共同体であったこと。
  • 特定産業振興臨時措置法が成立すれば、銀行の融資を通産省がコントロールすることになり、銀行に対する大蔵省の支配力が弱くなる。これは経済官庁間の最終戦争であり、大蔵省が勝利した。
  • 大蔵大臣になった政治家は多数いるが、大蔵省を掌握した政治家は極めて少ない。田中角栄の前に池田勇人、後に竹下登がいるだけ。特に田中は大蔵省の方針に反して自らの意思を通した。(日銀特融での無担保、無制限での特別措置や自動車重量税特定財源としての創設等)

第4章 国際的地位の向上

  • 中小企業金融公庫国民金融公庫に加えて、環境衛生金融公庫北海道東北開発公庫沖縄振興開発金融公庫などの機関が次々に作られ、低利の政策融資を行い、税制面でも恩典が与えられ、中小零細企業保守政党の支持基盤となった。同様に、農家食料管理法により、地位が補償され、保守政党の支持基盤となった。経済の高度成長を促進する政府の支持基盤が中小企業や農家などの成長から取り残される部門であったといえる。
  • 戦後日本経済の基本性格は以下のとおり。これは社会主義経済に他ならない。
    1. 企業は株主の影響外にあり、利益を追求せず規模の拡大を求める。
    2. 大地主や大資産家は存在しない。
    3. 土地は膨大な数の零細地主が保有する。
    4. 国家財政が農業や中小零細企業などの低生産性部門に補助を与える。
  • 日本の地価はなぜ上昇したか、これは土地が資産であり「利用するために保有するのではなく、保有それ自体が目的で保有するから」である。土地の利用収益があまり重要視されておらず、土地の有効利用が進まなかったことによる。

第5章 石油ショック

  • 大蔵省が作成する予算書は、対数表の次に誤植が少ない書籍と言われている。
  • 石油ショックの対応には、賃金の抑制、配置転換が必要であった。これを日本型の労使協調路線では容易に実現できた。企業別労働組合と企業一家主義という戦時システムがうまく機能した。

第6章 バブル

  • 経済成長の中では、預金で保有するとその価値は目減りしてしまうために、実物資産が必要であった。戦後日本では実物資産は土地しかなかったため、人々はどんなに無理をしても土地を購入した。

第8章 金融危機

  • 日本企業は、優秀な社員が多数おり、状況が大きく変化しないときには、みんな仲良く、家族のように居心地よい職場であるが、外部環境が大きく変化して経営上の重大判断を迫られるとそれをできる経営者がいない。日本の大会社の役員は「社員の成れの果て」であり、「経営しない経営者」である。
  • 90年代のアメリカにおける金融改革、86年のイギリスでのビッグバンと呼ばれた金融規制緩和といった改革は、市場の力で方向性が定められている。政府が行ったのは規制緩和のみだ。これに対して日本の戦後体制は市場を否定し、その影響力を遮断しようとするものだった。

第9章 未来に向けて

  • 戦後経済においては、日銀のみならず、すべての経済組織が単一の国家目的のために奉仕すべきだとされた。その中心が、統制金融だ。それは大蔵省のコントロールのもと、長期信用銀行都市銀行を頂点とする金融機関が整然と役割分担して預金を吸収し、重化学工業に資金を供給する仕組みであった。
  • 一億総中流社会を作った分配構造は、大企業での年功序列による賃金体系、農業等に対する補助金によって作られた。能力や生産性のよる分配を否定した構造である。
  • 戦前の日本経済は欧米流の資本主義であった。日本的とされているものは、戦時に構築されたものである。
  • 戦時体制が確立されたときの日本では、大量生産の製造業がようやく確立されつつあった。このような経済活動で重要なのは、創意ではなく、規律である。全員が共通目的の達成を目指して同じことをやるのが望ましい。そのためには、金融も間接金融のほうがよい。これに軍事国家の要請が重なって出来上がったのが戦時経済体制である。